こんにちは!管理人のyukariです。
さて、今回のテーマは音楽プロデューサーの武部聡志(たけべ さとし)さん。
1983年からユーミンのライブツアーにも参加し、一青窈とはデビュー前から音楽を作り、大ヒットした「もらい泣き」では日本レコード大賞編曲賞を受賞しています。
そんな武部聡志さんが、11月26日の「関ジャム 完全燃SHOW」にゲストで出演されます。
今回は武部聡志さんの「詳しい経歴は?」「妻や子供はいるの?」の疑問に答えるのに加え、縁の深い松任谷夫婦と一青窈のエピソードを交えてまとめてみました。
武部聡志の経歴(プロフィール)
生年月日 | 1957年2月12日 |
出身地 | 東京都田園調布 |
出身中学・高校 | 麻布中学・高校 |
出身大学 | 国立音楽大学 |
武部聡志さんは、祖父の代から東京都で4歳違いの兄がいるそうです。
田園調布出身という事でかなりお坊ちゃまなんですね。
【幼少期】
兄と一緒に幼少期からピアノを習い、赤ん坊の時から兄のレッスンに付いて行っていたので絶対音感が身に付いていた。
【小学生時代】
ピアノは好きで、続けて習う。
兄の影響で小学3年生からエレキブームに触れて、譜面を見ずに耳で聞いて曲をコピーしていた。
ベニヤ板で作った手作りのエレキギターで練習していると、父親が突然エレキギターを兄の分と二本プレゼントしてくれ、そこからギターにはまる。
【中学・高校時代】
ロックバンドに憧れバンド活動に夢中に。
学生主催のパーティーで良く演奏したとか。
お金持ちの学生はやる事が違いますね。
バンドに夢中になりすぎた結果、学内での成績は下から二番目。
潰しがきくように大学へ行った方が良いのでは。という助言からいくつか音大を受けた中から選んだのが国立音大でした。
【大学時代】
入学してから入ったアマチュアバンドではオリジナルの曲を作って演奏していた。
18歳の時からスティービーワンダーの影響でキーボードに興味を持つようになる。
20歳の時に利用していたリハーサルスタジオは、恩師であるかまやつひろしさんやユーミンも良く利用したスタジオだった。
縁あってかまやつさんのバンドにキーボードとして参加する事になりプロデビューを果たします。
実は武部聡志さんは中学入学後すぐに父親を亡くしています。
そんな武部さんを音楽家として育ててくれたのがかまやつひろしさんで、父親のような存在だとおっしゃっています。
1980年にかまやつさんのバックメンバーメインのミュージシャン10名で自身の会社「ハーフトーン・ミュージック」を設立します。
かまやつさんを通じ頂いた仕事も多数で、打ち合わせに良く利用していたイタリアン・レストラン「キャンティ」でユーミンと引き合わせてくれたのも全てかまやつさんのご縁だとか。
武部聡志の家族構成
武部聡志の嫁
武部聡志さんは、1985年にご結婚されています。
武部さんが28歳の時ですね。
なんと結婚式の仲人を松任谷正隆・由実夫妻にしてもらったとか!
武部さんの妻の情報は公表されていないため、詳細はわかりませんでした。
学生の頃からバンドマンでかなりモテただろうな。
同じ業界の人って事もあり得ますよね。
武部聡志の子供
正確には何人子供さんがいるかは不明ですが、武部聡志さんには息子さんがいらっしゃいます。
だいぶ前のものになりますが、ユーミンのツアーにコーラスで参加しているプロヴォーカリストの今井マサキさんのブログに記載されていました。
さらに次の日は今井千尋、英子夫妻と息子、うちの家族で我らが武部聡志さんのお宅に毎年恒例のご挨拶。
武部さんの息子さんもでっかくなってて、みんなで風船バレーやったり家中を飛び跳ねてみたり。
引用元:今井マサキオフィシャルブログ
あの日本を代表する音楽プロデューサー武部聡志氏が必死に風船を追っかけてる姿はある意味貴重ですよ
これが2009年1月のブログなので、結婚した翌年に生まれたとしても13歳くらい。
この言い方だと息子さんだけのように聞こえますよね。
武部聡志から見たユーミン夫婦は?
1983年からユーミンのツアーに参加して40年!
ユーミンのツアーのトータルプロデュースは松任谷正隆さんで、全ての決定権を持っています。
音楽の部分に関しては武部さんに任され、アレンジしてある程度まとめた段階で正隆さんがチェックするそうです。
「なぜユーミンは時代が移り変わっても色あせないのか?」
流行りが気になっても自分の意思を曲げず、思ったことをちゃんとやっているから。
自分の音楽性を追求して形に残す事が一番大切で、継続するのが難しい事なのだそうです。
それを近くで身をもって教えてくれているのがユーミン夫妻なのだそうです。
一青窈の才能を開花させた武部聡志
武部聡志さんと一青窈さんが出会ったのは彼女がデビューする前のこと。
元々R&Bの曲が好きだった一青窈さんでしたが、それでは全く一青窈の良さが出ないと武部さんは感じました。
台湾にもルーツを持つ一青窈の特徴を生かした曲を武部さんが作り、一青窈が作曲する。
ヒット曲「もらい泣き」やはじめてのアルバムを作成している時には、毎日ファックスで何十枚と歌詞を武部さんに送ってきたそうです。
「もらい泣き」は武部聡志さんが唯一日本レコード大賞の編曲賞を受賞した曲です。
武部聡志さんは自身の著書「すべては歌のために」でおっしゃっている言葉で「ひと声出しただけで世界が変わるような声で歌う人が好き」とあります。
代表例としてユーミンを挙げてらっしゃるのですが、分かるなぁ!
ユーミンが歌ったらもう、ユーミンの世界が広がるよね。
それが、ぶわぁ~っと広がったら、それこそ武部さんのおっしゃっていた「自分の音楽性を追求して形に残す事」が出来ている証拠なんだろうなと思いました。
まとめ
今回は音楽プロデューサーの武部聡志さんについて調べてまとめてみました。
・武部聡志の実家は田園調布でお金持ち。
・幼少期はピアノ、学生時代はギターでバンドに夢中。
・武部聡志の恩師はかまやつひろし。
・武部聡志は40年間ユーミンのツアーに参加している。
・一青窈の才能を開花させたのは武部聡志である。
・武部聡志の家族構成は本人・妻・長男である。
武部聡志さんと関わったアーティストは数知れず。興味深い話が沢山あり、皆さんに分かりやすいようにと、端的にまとめるのはなかなか難しかったです。
それでもこの記事で少しでも興味が満たされたら幸いです。
コメント